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さて、エドガルド・ミケロッティ氏に会うのは2度目である。
前回は4年前のことだったがよく覚えていてくれた。今回も同様に彼の父親であるジョバンニ・ミケロッティの昔話で花が咲いた。それだけでなく、彼の今の活動についていろいろと話を聞いた。50を過ぎてもまだまだ新しい挑戦を続けているようだ。一つはジョバンニ作品の保存活動から得た写真技術を生かし、大学でデジタル写真の講座を持っているとのこと。デジタルカメラではなく、より高解像度を求めて、フィルムからのデジタイズを研究しているということだった。今や直接デジタルカメラで撮った方が解像度は高いと思うのだが・・・。 それはそれとして、驚いたニュースがある。ミケロッティとビニャーレが新しい会社を作り、コラボを始めたというのだ。ミケロッティは、当時純粋なデザインスタジオであった。これは当時としては非常に珍しいケースであることは以前紹介した通り。モデリングから生産までは提携先のカロッツェリア・ビニャーレで行っていたのだ。カロッツェリアとはいわゆる板金屋なんだと彼ら自身の口からも聞いた。なので、ビニャーレの作品と思われていたクルマも実はデザインはミケロッティだったというケースは非常に多いことがわかっている。なんと、知られていないことだがピニンファリーナですらミケロッティの作品が時々あるという。そのミケロッティとビニャーレ、そんな歴史的な組み合わせが2006年に復活したという知らせを聞いて、我々は驚きを隠せなかった。そうこうしているうちに、もう一人の50代の男が合流した。名刺をもらってビックリ、名前はアルフレッド・ビニャーレ。おおお、何と言うことだ!今度はあのビニャーレの息子!二人でかつての名コンビを復活させ、自動車エンジニアリングのコンサルティング会社を設立したというのだ。喜ばしいことではないか。 二人が揃ったところで、話は更にディープな方向へ。最も面白いエピソードを紹介しよう。フェラーリは元々ビニャーレにボディを作らせていた。デザインはビニャーレオリジナルもあればミケロッティのものも多い。では、何故あるときからフェラーリのボディデザインはピニンファリーナになったのか。これはどの雑誌にも書いていないことなのでここで書いていいものやらためらってしまうが、思い切って書いてしまおう。日本語だからいいよね!? フェラーリは高性能であるばかりでなく、ビニャーレの素晴らしいボディとともに、レースでの成績と相まって名声を高めていった。しかし、エンツォは次々と行われる開発で金回りが悪かったのか、ビニャーレへの支払いが常に滞っていた。いつももめていたという。そんな最中、ピニンファリーナが自分たちの看板としてフェラーリの生産が欲しかったのだ。格安でフェラーリに提案したという。エンツォはその提案を受け容れ、パートナーであったビニャーレとあっさりと手を切ったという訳だ。フェラーリがビニャーレからピニンファリーナに鞍替えしたその理由は何と、エンツォ・フェラーリの金払いの悪さだったのだ。 そのおかげで、ピニンファリーナのビジネスは大きく拡大し、勝ち組のカロッツェリアに登りつめた。フェラーリで名を上げ、他で儲けたのだ。ずるいが、今でもよくある賢いやり方である。 ただし、この話はあくまでもビニャーレの一方的な見解であり、ピニンファリーナには聞いてないので、信憑性はわからない。そのことはご理解頂きたい。 ミケロッティ事務所での記念写真 左からフミア氏、ミケロッティ氏、私(初めての顔出し)、ビニャーレ氏、友人 何て凄い記念写真なんだ!!!
by F105L
| 2007-02-03 23:21
| イタリア
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